#マスカラ劇場

今日もいつもの匂いで起床する。

いつものこんがり焼けたトーストの匂い、いつもの少し濃いめのコーヒーの匂い。

 

今日もいつもの音で起床する。

いつもの食器同士のぶつかる愛らしい音、いつものぐつぐつとスープを煮込む音。

 

そして、君の鼻歌と、そっと慎重に駆け寄ってくる足音。

 

「ばあっ!起きた?」

 

眠たそうに目を擦る僕に、彼女はいたずらっぽくそう言った。

 

僕は、今日も言う。

 

「おはよう、びっくりした…。今起きたよ!」

 

 

 

 

 

 

未来の「ありきたりな今日」を思い描ききれるようになったのはいつからだろうか。

考えてもわからない。もうこの生活に慣れてしまっていたようだ。

 

世界一大切なパートナーと共にいることを願い、共に生活を始めた。僕達は、ごく普通の幸せなカップルだと思う。

 

想いを告白したあの日。

子供の頃、映画で見たような、夕日が差す校舎の美しい告白なんてものじゃない。ただひたすらに、自分の溢れ出る言葉を押し付けたあの日。

 

返事をもらったあの日。

思いが通じあっていたことを知って、嬉しくなってはじめて手を握った。少し照れた表情の君の、はじめて施したと言う化粧が、鮮明に焼き付いている。

 

はじめて口付けを交わしたあの日。

お互いに震えた唇を重ね合わせるのに、今度は、言葉なんて要らなかった。

 

 

そしてある朝、「一緒に住もう」と僕は切り出した。

 

彼女は少し涙目で、「もうこの鍵絶対返さないからね!キャンセルとか無しだからね!」と、可愛らしい、まだ化粧の施されていない真っ赤な頬を膨らませた。

 

 

「掃除は僕、料理はきみでどう?」

「仕事もあるけど夜はなるべく一緒に過ごしたいな」

 

「やっぱり分担は決めないことにする?」

「ううん、でも『でもお互いに思いやりましょう。』でいいんじゃないかな」

 

互いを思いやること。

新しい生活での、たったひとつのルールだった。

 

 

 

 

 

 

その日がいつだったかなんて、もう覚えていない。

 

その日、彼女はずいぶんと疲れきって帰宅した。

どうやら泣き腫らした跡もある。

 

「今日はお風呂を溜めておいたよ。きみの好きな筑前煮も調べながら作ったよ。もう疲れたなら、一緒に寝てしまおう。メイクも落としてあげるし、布団はもう敷いてあるよ」

 

僕は精一杯、彼女を励まそうとした。

彼女が喜ぶことなら、何だって。

たくさん甘やかしてあげようとした。

 

「ううん、今日は夜通し楽しい話がしたいな。そして、明日は土曜日だから1日ずっと寝てよう。それから、明後日にはリセットして、おめかししてお出かけしようよ。」

 

彼女は、そう言って笑った。

でも僕も、何があったかなんて無理に聞くつもりもなかったし、夜が明けるまで、作った筑前煮をつまみながら、ふたりで思い出話だって作り話だってした。

 

確か、日の昇るころに、むにゃむにゃと喋りながらきみは眠ってしまったけど、その顔は幸せそうに緩みきっていた。

 

化粧は落とさずとも、もう既に落ちきっていたが、メイク落としシートでさっと拭いてやった。

 

同棲を切り出したあの日と同じ、可愛らしい真っ赤な頬と、化粧なんてする必要のない彼女の長いまつ毛が、いまでも妙に頭に焼き付いて離れない。

 

 

 

 

 

それから、明くる土曜日は2人とも家を出ずに過ごした。

 

トーストとコーヒーの匂い、食器のぶつかる音、ぐつぐつとスープを煮込む音。

それから彼女のご機嫌そうな鼻歌と、そっと慎重に近づいてくる足音。

 

「ばあっ!起きた?」

「おはよう、びっくりした…。今起きたよ!」

 

休みの日にも関わらず、夜通し起きていたにも関わらず、特に代わり映えのない、凡庸を垂れ流したような1日だったことしか、思い出せない。

 

 

 

 

 

 

翌朝、僕は彼女と一緒に、精一杯めかしこんで出かけた。

 

「ありがとう、元気出た!ここ出たらリセットね!」

 

彼女は出かける前に、玄関で笑いながらそう言ったが、新たな月曜日を共に迎えることはなかった。

 

そこから先は、ひどく辛く、悲しかった。

そんな日曜日の夜のことは、思い出そうとする度に頭痛がしてしまうから、思い出したくない。

 

 

 

 

 

【 飾らない笑顔で   ありきたりなキスをして

凡庸なラブストーリーがちょうどいい

終わりがあるのなら   始まらなきゃ良かったなんて

いじけてばかりで 】

 

 

街角で流れてきた曲が、妙に耳に残る。

 

彼女の『リセット』とは、いったいどういう意味だったのだろう。

 

あの凡庸な土曜日を二度と迎えることの無い僕には、もう、その先が分かることはない。